序論
鍼灸医学の起源は中国の古代だといわれている。古代原始社会の人類は山の洞窟に住み、その場所は暗く、湿気が多くその上、野獣と戦うこともあった。
そのため関節痛や傷を負うことも多かった。身体のある場所に傷や痛みがあった時、神霊に祈る以外は、自然にある物を使って揉んだり押したり叩いたりして苦痛を軽減していた。もしくは一種の楔状石で身体のある部分を叩き、少し血液を放出し、よりはっきりとした効果を得た。砭石(へんせき)を傷に対して使うようになり、道具による医療の方法が確立した。これが鍼治療の始まりである。「山海経」にはこのような記載がある”高い山に硬い石が多くあり、鍼のように使った”これは古代人類が砭石を鍼の代わりとして治療した証拠である。1963年内モンゴル自治区多伦旗地区头道洼村で新石器時代の一つの研磨された石が出土された。
素問・异法方宜论篇にはこのような記載がある。[東方は天地が生まれる所だ、沿岸で海水が傍にある、その民は塩辛い物を好む……その病は腫れ物によるもので、治すには砭石を使う。ゆえに砭石を使う者も東から来たのだ]。
砭石で病を治すと説明するのは、当時人類が居た大地の環境と歴史は切り離せない。人類の知恵と社会の生産方法が発展するにつれて、鍼は石鍼から青銅鍼、金鍼、銀鍼へと発展し、現在はステンレス製の鍼となった。
灸の発明は人類が火を使うことを知ってからである。身体のある場所に病気や痛みが起こった時、火であぶったところ、心地よい、又は緩和した。それゆえ、少し長く熱を与えるような治療を行えるということが知られるようになった。続いて様々な樹木を使用した灸を実施するといった発展があった。素問・异法方宜论篇ではこのような記載がある。[北の者は塞がれた建物の中に居て、高い丘に居る。寒冷で冷え、その民は東の野原で乳を飲む。臓器は冷え、多くの病が生じる。その治療は玉のような灸をするべきだ。それゆえ、灸を行う者は北から来た]。灸法の発明は寒い生活環境と密接な関係があるのだ。
この他に、抜缶法もまた原始時代から始まり、始めの頃は獣の角で作成した飲用器具を利用した。その中の空気を排除し、皮膚表面の邪気を吸引し古代に適合したのが角法だ。
鍼灸の学術的発展はとても長い歴史と共にある。近年、甘粛省、寧夏、湖南省の馬迹山、淮陽区、禹州、江蘇省鎮江市など、みな”夏商時代“※の骨製、銅製の鍼が見つかった。これは早期鍼灸医学の一側面といえる。
※夏:(紀元前2070年~紀元前1600年頃)
※商:(紀元前1700年頃~紀元前1046年)
春秋・戦国 〈紀元前479~紀元前249年〉
春秋、戦国、秦、漢の時代、中国は奴隷社会と共に封建社会をとっていた。政治、経済、文化の発展と共に医薬学が発展する条件を満たしていった。鍼の道具は砭石により始まり、骨鍼が進化して金属鍼となった。特に九鍼の出現は鍼灸を実践する機会を更に拡大し、鍼灸学術の飛躍的な発展を促進した。鍼灸理論も絶え間なく昇華した。
左传の記録によると春秋戦国時代の名医である医緩は医学だけでなく、あらゆる鍼灸に精通していたことが分かる。まず、秦時代の名医である扁鵲(へんじゃく)は虢太子の意識障害を治す時、その弟子である子陽に三陽五会を取穴し、太子を回復させた。また、弟子である子豹に両季肋部に薬を貼らせたら、なんと太子が起き上がったのだ。まず、秦の時代の石鍼、灸などは各種疾病の治療としてすでに一般的に使われていたことが証明された。このことは臨床実践の総括、向上、および医学理論の形成と発展に重大な影響を及ぼすことになった。1973年、馬沙馬王堆漢墓3番から出土した書簡の中に、経脈について書かれた2種類の古代文があった。それは11の脈に沿った分布と病状表現と灸法の治療について論じられており、鍼灸学の核心、理論、経絡学が唱える早期の姿を反映していた。
戦国時代になり内経(霊枢、素問)が次第に作られ、重要な内容は陰陽、五行、臓腑、経絡、精神、気血等である。これは整体観に基づいて人体の生理、病理を明らかにして、診断をするのに予防医学の原理を導くのだ。重点的に述べているのは経絡、兪穴、鍼法、灸法などである。特に霊枢は鍼経といわれ、比較的経絡、兪穴理論について具体的に述べられており、刺鍼、施灸方法や臨床治療など鍼灸医学に関して比較系統的な総括が形造られた。これは後世の鍼灸学術的発展の礎を築くものであった。
秦・漢・三国 〈紀元前221年~西暦250年〉
秦・漢・三国時代は経済、文化、衛生分野でより一層の発展があった。
漢の時代において難経がほぼ完成され、またの名を皇帝八十一難経という。難経を明らかにしたものを要旨として、その中には奇経八脈と原気について記述があり、更に不足している点を補足した。同時にまた八会穴を打ち出し、五行に基づいた五兪穴と共に詳細な説明を行った。この時期は著名な医学家の多くが鍼灸の研究をとても重視していた。
中国の診療録の創始者である淳于意は甾川王が重度の意識障害、頭痛、発熱を治す時、足の陽明の脈を左右三か所ずつ刺す〈史記〉とある。六経弁証を考案した张促景はその著作である傷寒論で薬分野だけでなく、後世に輝かしい証拠を残した。かつ鍼灸学術にも多くのずば抜けた疾病の解明と貢献があった。ただ傷寒論太陽篇には鍼灸に関する内容が20条以上に及んでおり、鍼と薬方を合わせて弁証している。
この他に外科で名を広めたのが、この時代の華佗の鍼灸であり、”華佗平脊穴”を考案した。三国時代の曹翕は灸法を得意としており、「曹氏灸経」と「十二経明堂偃人図」を書いたが、残念ながら現存していない。
西晋・東晋 〈西暦250~439年〉
両晋時代、有名な鍼灸家であった皇甫谧は「霊枢」、「素問」、「明堂服穴鍼灸治要」を深く研究し、この3つの鍼灸内容をひとつにまとめ、重複している部分を削除し、「鍼灸甲乙経」を著作した。全面的に述べているのは臓腑経絡学説で349個の兪穴の位置、主治、操作、鍼灸のやり方の紹介、病に対してすべき事、してはいけない事、よくある病気の治療について取り決めをした。続いて内経の後、多才な者たちが変更を加えて、ひとつの結論を出した。現存する最古の鍼灸書は6世紀に日本や韓国へ渡り、すぐに鍼灸が世界へ伝わることになった。
晋の時代、錬丹※で有名な葛洪が「肘後備急方」の中で鍼灸医方109条の中の69条を書き写し、それによって灸法は日に日に発展した。その要である鮑姑もまた得意の灸を用い、中国の歴史上まれにみる女性の灸治療家であった。この他の名医で秦承祖、陶弘晾などが鍼、灸に対する研究をいくつか行った。
※錬丹(れんたん):中国の道士の術のひとつ。辰砂(しんしゃ)などで不老長寿の丹薬を作ること。
隋・唐 〈西暦589~907年〉
隋、唐時代は経済、文化が繁栄するにつれて鍼灸医学もまた大きな発展をとげた。唐の時代までに鍼灸はひとつの専門の科として確立し、鍼灸医学もまた重要な役割を占めるまでになった。唐時代の侍医であった署免責は宮中に鍼灸医学の専門が無かった時、医薬教育を主管した。そのメンバ―は鍼博士1人、鍼助教1人、鍼師10人、鍼士20人、鍼学生20人である。鍼博士は鍼学生に経脈穴、脈の浮、沈、滑、渋、また九鍼による補瀉法を教えた。唐の時代、鍼灸医学に対し厳格な教育を重視し、鍼灸学の全面的な発展と進歩を促進した。
有名な医学家である孫思邈(そんしばく)はその著作である「備急千金要方」の中で5色の”明堂三人図”を製作し阿是穴と指寸法を考案した。この時期に灸法は最も盛んであった。王焘が書いた「外台秘要」崔知悌が書いた「骨蒸病灸方」は最も称賛された。
五代十国、宋、遼、金、元の時期、後唐以後に更にレベルの高い鍼灸教育組織が造り上げられ、鍼科、灸科は「素問」、「難経」、「鍼灸甲乙経」が研修所で必修科目となった。
北宋・南宋・元 〈西暦960~1368年〉
北宋時代の有名な鍼灸家である王惟一は明堂経穴を研究し直し、西暦1026年に「銅人兪穴鍼灸図経」を作成した。共に掘った石碑職人たちが、石摺りを行い、それは2つの銅人模型を作る計画ではなく、外側は経絡兪穴、内側に臓腑を置き、鍼灸教育での観察と鍼灸医学生の試験用として製作されたのだ。これらは経脈兪穴理論の知識の統一と鍼灸学の発展を促進した。
南宋鍼灸学者である王執中は西暦1220年に「鍼灸資生経」を著作した。彼は多くの民間で散在する臨床経験を収集することをとても重視していた。その上、灸技術と圧痛点の診断と疼痛治療に対する作用も重視していた。
元の時代、伯仁于が西暦1341年に「十四経发挥」を著作し、十二経脈は任脈、督脈と合わせて十四経脈と呼ばれ、後世の経脈を研究するのに非常に役立った。この時期は金元四大医家による学説が形成され、鍼灸医学に対する各々の見解があった。また子午流注(時に流れは水の流れのごとし)という鍼法を起こし、この子午流注を更に変化させた理論を使用した。
明 〈西暦1368~1644年〉
明の時代は鍼灸学術の発展が高まり、名医を輩出し理論研究は深化した。金元の時代に合った各種の流派の異なる特色を継承し、古いものを新しいものに生かした。この時期、特に優れた書籍が西暦1601年に著作された「鍼灸大成」であり、最も大きな影響を与えた。これは杨继洲が記した「衛生鍼灸玄机秘要」を基礎として歴代諸家の学説と実践経験の総括を集めたもので、「内経」、「鍼灸甲乙経」を受け継ぎ、これもまた後の鍼灸学術に対するひとつの締めくくりとなった。
上記の書籍は40種余りに出版され、フランス語、ドイツ語、日本語など多言語に翻訳され、国際的に大きな影響を与え、後世の鍼灸教育、研究の重要な参考文献である。この他に徐凰が書いた「鍼灸大全」があり、鍼灸手法について評論している。汪機が書いた「鍼灸問対」は鍼灸学術領域の主要な内容に対して80以上の問答があり、学習者は大いに啓発された。この他に例えば陳会の「神応経」や高武の「鍼灸聚英」など、全て鍼灸学術の発展に対して一定の影響を与えた。
清・中華民国 〈西暦1644~1949年〉
清から中華民国の時代、鍼灸医学は興隆から次第に衰退へと向かった。西暦1742年呉謙(ごけん)らが書いた「医宗金鑑」その中の「刺灸心法要決」では歴代先賢鍼灸の要約を継承しただけでなく、提唱し盛んにする、輝かしい内容を加え、歌や図が豊富にあった。乾隆14年(西暦1749年)以降、清太医院の医学生の必修内容として定められた。
清後期の時代、道光皇帝をはじめとした封建統治者は”鍼を以って刺し、火をもって灸とするのは、究むるところ春君の宜しきところにあらず”荒唐無稽であるという理由で鍼灸治療の禁止令が発令された。
1840年、アヘン戦争の後、帝国主義が中国に入り当時の統治者は中医を極力白眼視し、消滅させようとして、鍼灸はさらに大きな損害を受けた。それにもかかわらず、鍼灸治療が人々の心を捉えたのだ。それゆえ、民間の間で鍼灸は広く伝わった。鍼灸名医の李学川は1822年「鍼灸逢源」を書き、弁証取穴を強調し鍼と薬の併用を重視し、361個の経穴の並びを完全に整備した。この大部分は現在の鍼灸学の教材に使用されている。
中華民国の時代に政府は中医禁止令を出したが、多くの鍼灸学生が鍼灸技術、つまり祖国の文化的に貴重な宝の保存と発展のために〈鍼灸学社〉を設立した。そこでは鍼灸の専門書を編集、出版し鍼灸の通信教育等も推し進めた。近代で有名な鍼灸学者である承淡安は鍼灸学術の振興、また世に送り出すため生涯にわたり貢献した。
この時期、中国政府指導下にある改革の拠点では、西洋医学学習に鍼灸治療を使用するということが、明確に提言された。延安のノーマン・ベチューン国際平和医院は、鍼灸部門を開設し、鍼灸を総合医療に正式導入する先駆けとなった。
現代 〈1949年~〉
中華人民共和国が成立してから、祖国医学の遺産を盛んにする、継承することをかなり重視して中医政策を決定し、中医事業を発展させるひとつの対策を講じた。こうして鍼灸医学はかつてない普及と質の向上を得た。50年代の初め、衛生部の鍼灸療法実験所で真っ先に中医政策が実行された。ここは中国中医研究院鍼灸研究所の前身である。それに伴い、中国全土各地で鍼灸の研究、医療、教育体系が整った。これ以降、「鍼灸学」は中医学生の必修科となり、極めて多くの鍼灸学科のある中医の養成校が開設され、鍼灸の人材を輩出した。
40年あまり継承された基礎の元、翻刻、校正、注釈し、古代の鍼灸書に大きな批評を加えた。現代医家の臨床経験と科学的研究業績を結合させ、多くの鍼灸学術書と論文を出版した。また、中国鍼灸学会が設立され、学術の交流はとても活発となり、鍼鎮痛の基礎である鍼麻酔の発見につながった。
鍼灸を研究する仕事は単純な儀式ではなく文献の整理であり、またその治療の臨床効果に対して系統的な観察を行うことである。経絡理論、鍼の鎮痛メカニズム、穴の特異性、刺鍼、施灸の素早い施術など、現代の生理学、解剖学、組織学、生化学、免疫学、分子生物学、および声、光、電気、磁気など学際的研究分野の中で新しい技術の実験、研究が進められている。臨床実践では鍼灸が外科、婦人科、小児科、骨科の五科で多種の病証の治療に効果があることが実証されている。